あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
昨年はやけに忙しく、本を読んだり映画を観たりがなかなかできなかったので、今年はそういうことをする年にしようと思っています。
さて、来週いよいよ『アラサー魔法少女の社畜生活』という公演を行います。
僕は今、この作品の見どころを伝えるべき立場にいます。
ところが、実は昔から「この作品の見どころは?」と質問されるのが苦手でした。
理由は「全部だから」です。
面白い作品というのはピンポイントでどこかが面白いのでなく全体がずっと面白いです。
ちょっと古い例ですが『シン・ゴジラ』がそうでした。
ダレる間が一切なく、ずっと面白かったです。
あれは全部が見どころだったと言えますし、ジャンルや方向性は違っても、すべての物語作品は「全部見どころ」を目指すべきだと思います。
見た人同士で「特に」どこが良かったという会話なら成立します。
しかし、クリエイターからまだ見ていない人に「見どころ」という形で作品の良さを伝えようとするのは、「そこ以外は見どころではない」と言っているようなものだと僕は思うのです。
- この作品の見どころは?
という質問は、
- 彼女作らないの?
- (遺族に対する)今のお気持ちは?
と並んで、「三大・それ訊いてどうすんの質問」に認定されています。
ーーなんてことを思うあたりが、僕の社会性の欠如の一端なのでしょう。
たぶん99%の人が「全部と答えない=見どころじゃない部分がある」なんて考え方はしていないはずです。
というか、僕も第三者視点ではそんなアホなことは考えません。
しかし、回答者になった時、「全部」以外の答えはどうも違和感が拭えないのです。
質問者の立場で考えてみましょう。
「見どころは何ですか?」
と訊いて、
「全部です」
という答えが返ってきたら、
(何こいつ)
(そりゃそうだろうけど空気読めや)
という心情になるものと想像できます。
また、このやりとりを第三者が聞いている場合、作品に対して良い印象が生まれるとは思えません。
質問者や傍聴者は、
(面白そう!)
と思いたいのであって、回答者の本音が知りたいわけではないのです。
「良いものを作る」と「良さを伝える」は似ているようで全然違うなあとつくづく感じます。
見どころは何ですかという問いに全部ですと答えるのは、良いものを作りたいだけの立場なら誠実ですが、良さを伝えるべき局面なら完全に不正解です。
ーーそういったことを踏まえて(?)、『アラサー魔法少女の社畜生活』の「見どころ」は、1/5の調布FM「ラジオボンバー」の“芝居のススメ”のコーナーでお話ししようと思います(・∀・)
今年もよろしくお願いします。
2019年1月11日(金)~14日(月祝)@萬劇場