それにしても語彙が欲しい

脚本家/フリーライター・森山智仁のブログです。ほぼ登山ブログになってしまいました。

教養がなくても楽しめるものはクソである

f:id:moriyamatomohito:20181013180643j:plain

タイトルは釣りです。

正しくは「楽しんでいる時は必ず教養が発揮されている」です。

 

クロコップの「空手家の子」を例に挙げます。

空手という格闘技や地獄突きという技をあらかじめ知っている必要はありません。

「だんだん動きが激しくなるという教養」が共有された結果、笑いが起きるのです。

どれだけ愉快な動きをしても後半だけ見せたらウケないはずです。

(室伏はあらかじめ知らないと笑えないかもしれません)

 

本来、あらゆる笑いは内輪ウケなのです。

ほとんどみんなが知っている話が元ネタなら内輪ウケ扱いされず、マニアックなものが元ネタだと内輪ウケだと非難されますが、知名度の違いでしかありません。

   

教養(下地)を前提とするのは、笑いに限りません。

先日、『6分の2』という短編小説を英訳していただいたんですが、

「コンビニのバイトが髪を黒くしてくれなくて困っている」という部分があり、このニュアンスは日本人以外には理解できないかもな……と思っています。

(最近のコンビニはそんな規制ないですかね?

10年ほど前に僕がダイソーでバイトしてた頃は「黒または薄めの茶」でした)

 

 

クロコップの教養の与え方は大変お上手で、室伏以外ほぼ予習不要ですが、では教養をあらかじめ必要をするものはダメなのかというとそんなことはありません。

教養を持つことはある程度、受け手(観客・読者)の義務であると考えます。

 

教養とは、テストでいい点を取るためとか、ひけらかしてドヤるためのものではなく、楽しむためのものなのです。

広い教養を持っているほどいろんなことが楽しめます。

教養がないと「知らん話はつまらんわ」という檻の中に居続けることになります。

 

 

ちなみに僕は「自分が知らないアニメ(?)が元になっている内輪ネタでも演者が上手くて周りが爆笑してると笑えてしまう」んですが、同じ体質の人はいませんかね。

今までの人生で一度も理解されたことがありません(・∀・)