それにしても語彙が欲しい

脚本家/フリーライター・森山智仁のブログです。ほぼ登山ブログになってしまいました。

小説『ワンハンドレッドサウザンド』1

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 隣人はどうやら手淫をしている。インターネットカフェの個室はフォアグラ農場のケージと同じで、中の生物が生きるのに最低限の容積しかない。死後に高級食材を残せるという意味で我々よりアヒルたちのほうが優秀だとも言える。

 我々は何も残せない。いや、隣人はマナー違反とは言え、これから先の人生で何かを残せるのかもしれないのだから、「私は」と訂正しよう。何かを残したいと考えて生きていたわけではないけれど自分が何も残せずに死ぬことになるとも考えていなかった。

 もとい、自分が死ぬことはないと思っていた。死は今までフィクションとニュースと葬式の中にしかなかった。十年前、両親が旅行先の事故で死んだ時でさえ、やはり自分がいつか死ぬということには考えが及ばなかった。

 死は、果てしなく遠かった。犬吠埼から東の海を見るようなもので、その先に北アメリカ大陸があるということはただの知識であって景色ではない。

 いや、違うな。望むと望まざるとにかかわらず私は太平洋に漕ぎ出していた。三十五歳の私はすでに日付変更線あたりは越えていたことになる。普通に生きて、アメリカ大陸の影が見え始めるのは一体何歳ぐらいだったのだろう。

 重病とも災害とも無縁で、飲み物がいくらでも手に入るネットカフェで私が死を意識しているのは、全財産が残り十万円だからである。明朝、ナイトパックの料金を支払えば残り九万七千八百円になる。

 家はない。家は、ここだ。一昨日からこの個室を仮住まいとしている。この二日間何をしていたかというと、漫画を読んでいた。

 何かの間違いだと思っていたのだ。ここまでの人生、それなりにうまくやっていた自分がこんなことになるとは。

 思考が停止していた。店内で売られている明らかに割高の缶チューハイを何本も買い、すでに読破したことのある大ゴマの格闘漫画やギャンブル漫画をめくって過ごした。だらだらと過ごしているうちにいつのまにか解決策が用意されることを期待していた。

 今までずっとそうだったのだ。もはや八方塞がりだと思われた時、少し立ち止まっていれば、環境や他人、自分の心境等がいくぶんか変化して、とりあえず最悪のところは脱することができた。そういうものだと思っていた。

 どうも今回ばかりは違うらしい。この二日間の待機で変化したのは残高だけだ。

 日本にはたぶん、こういう追い詰められた人間が死ななくて済むような仕組みがあるのだろう。目の前のパソコンで検索すれば何らかの手立てが見つかる気がする。横着にも某知恵袋で質問すればきっと親切な誰かがすぐ教えてくれるだろう。

 そうすればいい。何故できないのか。

 プライドである。再起までの道のりにあると予想される、泥臭い労働や哀れみの視線を想像すると、私の意識は一足飛びで死へ向かう。自殺は良くないこととされているらしいが、今の私には何が悪いかわからない。