「影響を受ける」と「パクる」は何が違うのか
芥川賞候補作の類似表現をめぐって騒動がありました。
作品を読んでいないので、この件そのものには触れませんが、「影響を受ける」と「パクる」は何が違うんだろうということを考えるきっかけになりました。
そもそも僕たちは影響の集合体です。
子供の頃にかっこいい大人に出会えた人は幸福だ、的なことを誰かが言っていました。
親が日本語を使っていなければ日本語を喋ることはできません。
小説を読んでいなければ小説は書けません。
アニメが好きでたくさん見ているなら「アニメ化が一つの目標となる小説」は書けるかもしれませんが、アニメ【しか】見ていない場合「実写映画化されそうな小説」を書くのはほぼほぼ不可能です。
何の影響も受けずに与える側に回ることはあり得ないのです。
だからと言って、
「パクリは文化」
などと宣うのは拙速な極論です。
大事なのは「バレないこと」でなく「混ざっていること」ではないかと思います。
Aという一作品の影響を強く受け、結果的に酷似してしまった場合、書き手にパクるつもりがあろうとなかろうとそれはパクリです。
Aの影響を受けつつ、B・C・Dからも影響を受けていければ、Aにばかり似ることはないはずです。
よって、作り手はさまざまなものから影響を受けておいたほうがいいです。
とある一方向しか知らない場合、
- 混ざらないのでパクリになってしまう
- 知らないうちにかぶってしまう
ということが起こり得ます。
すでに誰かが成し遂げていることは、少なくとも論文の世界では無価値です。
ノベルジャム2018の審査でも、「車輪の再発明」であることを理由に、最優秀賞が該当なしとなりました。
「○○のパクリじゃん」
「既出じゃん」
と言われた時は、自分の中から新しいオリジナリティを捻り出そうとするのではなく、他のものからの影響をもらいに行けばいいのだろうと思います。