それにしても語彙が欲しい

脚本家/フリーライター・森山智仁のブログです。ほぼ登山ブログになってしまいました。

九州が閉鎖的なのは何故なのか

旅の途中、腰を痛めて大分臨海工業地帯の近くに数日間停滞。

これも何かの縁だろうと、高杉良さんの小説『生命燃ゆ』を読み始めた。

 

昭和の一般的なサラリーマン像・専業主婦像が描かれていて面白い。

極めてナチュラルに隷属している。

たぶん現代以降の作家にはもう書けないやつ。

想像で書いても手を緩めてしまうか、力んで大袈裟になるだろう。

 

それにしても、九州のお国柄が閉鎖的とされるのは、何が由来なのだろう。

法事などの個人的な記憶の中でもバチクソ男尊女卑である。

女たちが台所で忙しくしてる時、男たちはタバコ吸ってるだけ。

大陸と京の真ん中に位置し、古くから人の往来・文化交流には慣れていそうなものなのに、何故なのか。

 

一つには、幕末あたりで顕著になったように、独立志向なのかもしれない。

往来があるからこそ、飲まれてたまるかという気概。

防人の精神。

流通頼りの島国と違って、資源が豊富だから、突っ張っても結構やっていける。

迎合する必要がない。

 

もう一つ、今回まあまあの距離を歩いてみて、九州は内部の血行があまり良くないかもしれないと感じた。

どこへ行くにも山越えになる。

これっていう平坦のまっすぐな街道が引きにくい。

車や電車で移動すると気にならないが、歩いてみると地味なアップダウンの多さに気づかされる。

水資源が豊かなのはそのせいでもあると思う。

 

そもそも日田が交通の要衝であったところにも不便さが現れていた。

日田が取り立てて便利なのではない。

日田ぐらいしかなかったのだ。

本当に便利ならば今ごろ空港の一つぐらいできていてもいいはずである。

 

異文化が入ってきても、それを広める気流が無い。

港は開かれていても、そこに留まり、奥地へ浸透していかない。

古くからそんな傾向なのではないだろうか。

 

「ある知り合いの財界人に、

"大分と熊本だけは風土的にも企業が育つようなところじゃない、

大分に工場を建てるなんて無謀も極まれりだ"

って忠告されたことがあったな。

つまり、それだけ閉鎖的だというわけだ。

言われてみれば思い当たることばっかりだ」

 

『生命燃ゆ』において、誘致されてきた企業が土地の閉じっぷりに苦労する描写があったことから、今回はそんなことを考えてみた。

本来「男尊女卑」と「閉鎖的」は切り分けて考えるべきかもしれないが、ちょっと今は深堀りする時間がないのでこのあたりにしておく。

 

なお、閉鎖的というのはあくまで比較的、かつ少し前の話であって、今はもうほとんどアップデートされているものと信じる。

旅の途中で出会うのはいい人ばかりだった。

なにしろ日田出身のうちの両親も、僕のような風来坊を容認できるほどに進歩的である。