ゲームばっかやってると何がダメなのか
僕の小学生時代はスーパーファミコンと共にありました。
スーファミソフトのシナリオへの感動がそのまま何本かの戯曲に反映されています。
例えば、高校のクラス演劇で書いた『遠衛兵』の「青の歌」は『ダウン・ザ・ワールド』の「ザバンザ」です。
プレステは何故か印象が薄いのですが、オンライン以外のドラクエとFFは一通り押さえています。
実家にいた頃は居間でゲームしながら寝落ちすることがしょっちゅうあったので、両親はさぞ呆れていたでしょう。
直近で印象に残っているのは、モンハンXXをアホほどやり込んだ結果、3DSのスライドパッドが砕け散ったことです。
ゲームは文化であり、コミュニケーションツールです。
ゲーム製作に携わる人々のことは尊敬しています。
ただ、ゲームばっかやってると確実に衰えるものが一つあります。
それは「課題を創出する力」です。
学生時代、かなりの時間をゲームに費やした僕は、
「課題解決型の思考法をしている」
という強い自覚があります。
何か課題を与えられると元気になります。(アバウト過ぎる課題除く)
情報を整理し、解決する手段を並べ、コストとリスクと副産物とを比較検討することができます。
トラブルが起きると逆にイキイキとし出すタイプです。
ところが、解決すべき課題がないと何もできません。
対策委員会の委員長なら務まると思います。
会社の社長には向いていません。
いわゆる指示待ち人間とはちょっと違うのですが、まぁ似たようなものでしょうか。
それでよく創作なんかやってるなと驚かれるかもしれませんが、自分でもそう思います。
自分の中から課題を捻り出すことはできないので、「〆切」なり「取材対象」なり、課題となるものを外部から引っ張ってきています。
また、創作行為そのものへのイメージも、「新しいものを生み出したい」ではなく「まだ誰かが見つけていないものを発見したい」という感じです。
自分より世界のほうが面白いと思っています。
ゲームにはあらかじめ課題が用意されています。
しかも、解決するための道すじがある程度示されています。
楽しく解決できなければクソゲー呼ばわりされます。
もちろん、比較的自由度の高いゲームもありますし、どんなゲームでも楽しみ方は人それぞれです。
しかし、あくまでも枠組みは他人が用意したものです。
ゲームばっかやってると、「課題を創出する力が衰える」というより、「解決できそうなものしか課題と見なさなくなる」のかもしれません。