それにしても語彙が欲しい

脚本家/フリーライター・森山智仁のブログです。ほぼ登山ブログになってしまいました。

いっこも自分の頭で考えた言葉がない恥ずかしい文章

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すみれさんのこの記事について、ほとんどの人は「は?」っていう反応だった。

nlab.itmedia.co.jp

 

妊婦でも父親でもない僕が何故この記事に目をとめたかというと、

「ああ、常套句だよなあ」

と思ったからだ。

 

たぶんすみれさんがおっしゃりたかったのはそういうことではないのだが。

 

妊婦といえば「ふっくらお腹」、「女神」。

その後「一児の母とは思えない」、「体型をキープ」。

フィギュアスケーターは「観客を魅了」。

相性は「抜群」。

海老は「プリプリ」。

 

どれも別に否定的なニュアンスではない。

褒めている。

だが、常套句だ。

いっっっっつもこれ。

他と何が違うかわかりゃしない。

判を捺したようにプリプリの海老。

 

こんなもの書くほうも読むほうも楽しいわけがない。

 

けれどまぁ、それでいいのだ。

次々と消費されるニュース原稿やwebのニュース記事に、読み応えのある日本語なんて誰も期待していない。

 

僕もライターとして上の人から「もっと独創的な表現ないですか」とか言われたことは一度もない。

「私見挟むのやめてください」となら何度か言われた。

署名記事や「作品」は別。

ザル一山いくらの文字列に独創性は求められていない。

 

昔は「この表現つい先週も使ったよな」などと思ってよく手が止まった。

もう今は一切気にしていない。

常套句も定型句も平気で使う。

今書いているのは「記事」なのか「作品」なのか、切り分けられるようになった。

 

だからもし僕が妊婦さんのことを文章にするならきっと「ふっくらお腹」とも「女神」とも書くだろう。

誰でも書けるが、僕も書く。

それ以外の何か違うもっと考えたら他にあるかもしれない、僕にしか書けない特別な表現を、探さない。

それを見つけたところでボーナスが出るわけではないからだ。

 

ライター一本で食っていこうと必死こいていたら、僕は今頃文章を書くのが嫌いになっていた可能性がある。

日に短時間なら、機械のように右から左へ書き流しても心は削られない。

 

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庵野モヨ子さんの漫画『働きマン』2巻に、こんなダメ出しがあった。

「住民は恐怖の一夜をすごし」
「着のみ着のままの生活を余儀なくされている」
「常套句のオンパレード いっこも自分の頭で考えた言葉がねーよ」
「誰だァ!? こんな恥ずかしい文章書いた奴は」

週刊誌の世界で、本当にこんなこと言われるのだろうか。

このシーンはファンタジーじゃないかと僕は思っている。

自分の頭で考えなきゃ通らないなら、僕らが日常的に見かける記事たちはもっと鮮やかなはずだ。

普通に常套句がまかり通っている。

 

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消耗品的な文章は、そのうちロボットが書くようになるだろう。

あるいはすでに始まっているのだろう。

僕はいらなくなるまでの繋ぎに過ぎない。

 

コンビニやスーパーのレジも、そのうちセルフが主流になるだろう。

僕は掛け持ちでその仕事も続けているが、やはりいらなくなるまでの繋ぎに過ぎない。

 

常套句やレジ打ちで銭が稼げた最後の世代になるのではないか。

そんなことを考えている。