ゆるい褒め合いの何が楽しいのか

そういうことがスマートにやれない性質で、昔は隠そうともしませんでした。
知人が出たり書いたりしている舞台の感想は
- 当たり障りなく褒めておく
- 褒められるところを探して褒めておく
- 「見ました〜」とだけ言っておく
- いっそ何も言わない
このいずれかが正解で、
- 本当に全部思ったことを言う
これはその世界で生きていきたいなら100%間違いです。
相手に情報を与えて自分が得るのは悪評だけです。
うまみが何もありません。
そういうことがわかっていなかったのか、あるいはわかっていても我慢ならなかったのか、20代の頃は思ったことを全部言っていました。
言ったことには責任を持つと考えていて、そのブログは今でも消さずに残しています。
「正直な感想を書いた昔のブログ記事を一切消さずに残している」という話を昨日「かっこいい」と褒められたけれど、もしかしたらあれが原因で来ていない(今後も来ない)案件があるのかもしれないな。だがそれでいい。言ったことには責任を持つ。
— 森山智仁 (@bacoyama) June 6, 2021
かつて僕の舞台に関わってくれた中で今いちばん上のステージに行っている人は、うちの解散公演について確か「今回が一番好きだった」とツイートしていました。
一見無難に褒めているこの一言をなんでそんなにハッキリ覚えているのかというと、
- 「じゃあやっぱりこれ以前の作品には言いたいことが山ほどあったんだな」(それを言外に言っているのが卑怯)
- 「今回の公演にも言いたいことはあるんだな」
- 「言えよそれを」
と、内心憤ったからです(・∀・)
NovelJamでは
縁や気づきなど多くの収穫があったのですが、
moriyamatomohito.hatenablog.com
もっとバチバチにぶつかり合う場を想像して、殺される覚悟で臨んでいたので、わりとゆるい褒め合いの世界だったのはちょっと肩透かしでした。
※というのは主に「参加者同士BCCKS内で高評価レビューを付け合う行為」を指しており、班や回によってはバチバチだったのかもしれません。
本当に心からの褒め言葉って明らかにそれとわかるもので、建前で褒め合うぐらいなら本音を言い合ったほうが有意義なのではないか――とは、今でも思っています。
致命傷が入ったなら手応えでわかり、痛がっている演技はバレるものです。
しかし最近
Twitterで登山アカウントを始めて、
「見ず知らずの人のツイートにファボするの楽しい〜〜〜😇」
ってなってます。
それに登山垢やってる人ってみんな大体良いことしか言わなくて、天候には愚痴っても、山そのものに関しては確定的に高評価です。
これはまさにゆるい褒め合いの世界なんですが、驚くほど居心地が良いのです。
「楽勝過ぎて面白くない」
「絶景というほどでもない」
そんなことを言う辛口レビュアーは今のところ一人も見かけません。
そんな人間いる!?
と奇怪に思われるかもしれませんが、僕が以前、ブログで書いていたことは究極そういうことなのです。
この変化はジャンルによる違いか加齢によるものか定かではありませんが、
「少なくともオープンな場ではゆるい褒め合いが一番なんだよな……」
ということをようやく受け入れています。
僕が率直な感想を書いていたのは、
「撃つ以上は撃たれても構わない」
「もとい、情報が欲しいから情報提供をしている」
という考えだったわけですが、そもそも赤の他人に情報提供を期待するのが間違いなのです。
自分の足りないところは親友か師匠か担当さんに教えてもらうか、自力で見つけるしかありません。
表ではニコニコと良いことだけ言い、誰も見ていないところで地獄の研鑽を積んでいる――そういう人が静かに勝ち上がっていくのでしょう。
追記
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